ガチャ。タッタッタッタ。ガタン。
トクトクトク。ごくり、ごくり。
「ふう……」
日課のジョギングを終え、冷蔵庫からとりだした冷えた麦茶を一気に飲み干す。今年で七十五歳。定年退職をした十年前、体に衰えを感じ、体力を落とさないために走り始めるとあら不思議。まだまだ元気があり余っていたようで十年間走り続け、若返ったようにさえ思う。同年代からの「元気だねえ」という言葉がとても嬉しい。
ピンポーン。椅子に座って休憩していると、誰かが、インターネットを鳴らす音が聞こえた。玄関に向かい、ドアを開けると、
「おお、薬(やく)君じゃないか。」
「どうも、お久しぶりです。地衣(じい)さん。」
おじぎをしたこの若者はもともと同じ会社に勤めていた後輩の薬 舐流君。もっとも彼と会ったのも十年ぶりだからもう三十代なかばの、おじさんともいえる歳なのだろうか。
「地衣さん、今日は新事業の話をしにきたんですが……」
「ああそうか。まあ玄関で話すのもなんだから、ほら、あがってあがって。」
リビングに入ってお茶の準備をする。緑茶は年よりくさいか、麦茶にしとこう。コップに入れて薬君のいる机の上にさしだした。
「ありがとうございます。ではさっそく僕のあれからの仕事についてお話しします。」
薬君は私が定年退職した十年前と同時期に会社を辞めた。新しい薬品の開発をしていたそうだが話を聞くのは今日が初めてである。
「ああ、ぜひ聞かせてくれよ」
「はい。実は、僕の作った薬の効果が認められて、今度発売することが決定したんです。」
「ほお、すごいじゃないか。いったんどんな薬なんだい。」
薬君が自分の腕時計をちらり、と見たあとまた話し始める。
近年、日本では高齢化が問題になってきています。高齢者の割合が増えるとともに、生産年齢人口の人々が高齢者を支えるための負担もどんどん増えてきています。
「まあ、そうだな」
いやみを言われているような気がして、うなづきながら少しうつむく。
「さらに医療機関の多用や介護の必要もでてきて、いわゆる「生きている」というだけの方も残念ながらいらっしゃいます。」
悲しいが知り合いの顔が何人か浮かぶ。
「これは本人にも周りにも負の要素しか生みません。そこで僕が発明した薬がこれです。」
机に見たことがないい色の錠剤が置かれた。どうぞ、と言われたので手にとって眺める。
「これは…普通の飲み薬のように見えるが…」
「ええ、しかし、効果は絶大です。それは強力なビタミン剤で、服用すると細胞分裂が活発に行われるようになり、肌は若返り、筋肉もつきもよくなり、けがをしても傷の治りが格段に早くなります。」
「それはつまり…『健康になる薬』ということか」
「そうです。活力が漲り、心身ともに健康な生活が送れるんです。」
自然と笑みをこぼしながら話していた薬君の顔が一瞬くもり、冷静なまなざしになる。
「しかし…おいしい話には裏があるのがつきものです。この薬は、生涯寿命とひきかえに健康寿命をのばすだけなんです。」
「どういうことだい」
「この薬を服用した人は、きっかり十年後、つまり八万七千六百時間後に、死にます」
「え」
「人の一生の細胞分裂数は決まっていますから、それは無理やり早めるとなると…どうしても…」
しばらく混乱していたが頭の整理ができてくると言葉があふれだした。
「とんでもない。寿命を縮めるなど。それからあったはずの人生を何だと思ってるんだ。」
「ですが、元気な生活はいいものですよ、地衣さん。」
「わしは今すでに元気だからそんな薬はいらん。もっとよぼよぼの人に言え。」
やや怒り気味で言った。落ち着いた様子で聞いていた薬君はまた腕時計を見た。
ーーーーーーっ
「今回の薬の発売にあたっては事前に説明を行ったうえで五名の方に被験者となっていただきました。無事、実験は成功し、五名とも十年間元気に生活したあと、急死しました。地衣さん、あなたは酔って覚えてなかったのかもしれませんが、あなたの定年祝いの会で僕、全く同じ話をもちかけたんですよ。あのときあなたたは言いました。『人に迷惑をかけず、ぽっくり逝きたい』と。十年間、楽しかったですか。」